第3章 設立そして成長 (50周年社長インタビュー掲載)

前回掲載の「第2章 会社設立の転機」では会社設立に至るまでのきっかけとなる出来事をインタビュー掲載しました。

引き続き「合同会社胸打つ企業研究所」代表の石田 浩様によるインタビュー内容です。

2019/10月以下インタビュー内容

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●兄の誘い受け独立開業へ舵切る

一定の積みかさに達した社会人経験とともに、結婚をして武内の行く道に充実感が見え始めた頃、容器加工会社に奉公していた兄から「会社をつくって商売したいけど、どやろ」と持ち掛けられた。もともと実家の家名復活を強く志していたうえ、独立心が旺盛だったことから武内は二つ返事で快諾した。

一方、嫁入り支度のように持ってきた貯金を差し出して資金援助をした妻は、武内の単独船出でないことをむしろ不安視していた。

そうした妻の心配をよそに、漕ぎ出した武内容器商会は好スタートを切った。兄の目論見が当たったようで順調に顧客数と売上高を伸ばし、個人創業からの2年間で田村薬品や森下製薬のほか桃谷順天館など数社を相手取って年商約7千万円を叩き出していた。オフィスは天王寺区のビルに小部屋を借り、この頃の従業員数は3人だった。

そこはもちろん、先行する列強を相手取る新参がのし上がるためには不屈の努力があった。武内は当時を評して「印刷手配からプレス成型また内職周りと夜遅くまで走り回った。急ぎの納入では夜間、暗闇の山中を軽トラックで走り回った」と獅子奮迅の働きを振り返った。

ほどなく立ち上げから約2年間が経つと、取引先各社の要望に応える形で昭和45年に「武内容器株式会社」を創立した。法人格が備わったことを境に、味の素や富士フィルム、日本ハム、ゼネラルフーズなど、末端の知名度が抜群ないわゆるナショナルブランドとの商取引が堰を切ったように始まった。

この頃の浮遊感をともなった成長軌道を振り返り、武内は第三者的な目線から謙遜も織り交ぜ「一流各社さまが、ようウチと(の取引を)ね。吹けば飛ぶような(業歴が)2~3年の商社」が当時の身の丈だった」と自嘲気味に述べた。

ただ、そこは偶然性の賜物ではなく、競合各社に対し武内容器に備わっていた優位勢について武内が語り始めた。新進気鋭もポッと出の容器商社が食品大手に引き立てられた鍵は、この頃に日本で一大ブームの前奏曲が聞こえ始めたゴルフだった。

商談機会を得て前出の食品大手各社を訪問すると、時あたかも「資材部の部長や課長がゴルフを初めていた頃」だった。そこは、胸を張って語れる事実を隠す必要はなく、武内が名刺代わりに「宣伝よろしく、美津濃に勤めてゴルフクラブを作っていました」と屈託なく述べると、自然な流れとして商談相手の関心を引いた。言い換えると、野球やサッカーとははなはだ異質な未踏のゴルフへ踏み出すうえで、武内は資材部長らにとって格好の水先案内人と化した。

初心者とすら呼べない未経験者にとり、当時のゴルフ用品売り場は来訪者へ敷居が高かった。そこを、得意げに「顔パスで通過できる」とする武内が一緒だと資材部長らは心穏やかだった。

ただ、美津濃は社長自ら新人の武内へコストの無駄遣いを戒めたエピソードが示す通り金銭に厳しい企業で、いわゆる「社販」で得られる恩恵がわずかばかりだった。そこで、武内はできるかぎりの労を尽くして資材部長たちがゴルフ用具を調達するための資金軽減に協力した。

もちろん、肝心なゴルフの技術習得でも武内は見込み販売先へ尽くせるかぎりの協力を惜しまず、ほどなくビジネスで欠かせない〝大人の社交スポーツ〟の代表へ押し上がっていく球技をテコに相手先との人間関係を紡いでいった。

一方で、ゴルフに習熟していたからといって提案する容器が価値不足では、ヒトとモノの両面へ厳しい目を注ぐ取引先から底の浅さを見透かされてしまう。増してや、メーカーとの直取引に比べコスト面が劣勢な商社の命運を噛み締め、武内は食品大手から必要とされる企業となるために全身全霊を費やして法人 武内容器の黎明期に臨んだ。いまもなお、「そこは苦労した」のだと快活に振り返る。

この頃15~16社あったという仕入先に託した金型でつくる容器に注文が入ると、武内は当該仕入先の工場に入り浸って製造現場に耳目を張り付けた。作り方を完璧に掌握するため「絵を書いて記録し、覚え込む大好きな作業」では、昔取った杵柄か「美津濃で積んだ経験が活きた」と笑った。

 注文を取りつける度、このように「成型屋さんからガラス屋さんまで、工場を徹底的に回らせていただき、現場で絵を書いて作り方を頭に叩き込んでいった」という武内は、何時の間にか容器メーカーの営業マンに負けない自信が備わったのだという。

 言い換えると、武内は「お客様に言われたままを見積もり化することは嫌いだった。聞いた話を咀嚼し、自分にしか出せない見積もりをお持ちしていた」というこだわりが、その後長い年月にわたって続いた同社の繁栄期の源泉だったのかもしれない。

●工夫と独創性で顧客引き付け成長軌道続く

武内容器が刻んだ50周年を振り返るにあたり、最盛期と呼べそうな当時の足跡を整理してみたい。

↑ジャンルを超えた数々の共同開発品やオリジナル開発品

 

周囲の要望に添って法人化が整うと、皮切りにゼネラルフーズ(現 AGF)と取引が始まった。嗜好品の新代表としてインスタントコーヒーが消費者の生活に浸透し始めた好機を捉え、これの金属キャップを同社へ年間に数億円規模で納める大商いを引き当て、以降2005年まで35年間にわたって「当社の主力取引先としてお世話になった」というロングラン取引につなげた。

AGFに取り立てられていた渦中では、バブル崩壊から受けた余波で大幅なコストダウンを強いられるも、武内はむしろ窮地を好機に転化にしようと「(グロスでいくらではなく)原料費と加工賃のほか管理費を明確に分け、詳細な容器見積もりを出した」ところ、競合が見せなかった対応に「かえって注文が増えた」のだという。

このほか、AGFと紡いだ長い関係性の中で武内が繰り出した貢献の矛先は、対日本だけにとどまらなかった。米国本社からやってきたキーマンとの面談機会を逃さず、ここでも持ち前の能力を発揮し「(現状の)逆テーパーのキャップは(製造が)難しいうえにコスト高になる。ストレートにしてはどうかと面と向かって提案した」。結果、採用となったあかつきにはAGFの競合がストレートキャップを模倣・追随するするエピソードまで巻き起こったという。

武内容器のステークホルダーにとっては周知の事実でも、主戦場だった食品の枠外で同社が残した成功事例を押さえておく必要がある。まず1989年、開発へ社歴に残る大苦労を注ぎ込んだ「写ルンです」防水カメラの筐体の提供を富士フィルムへ開始し、以降、年間120万台の出荷量を13年間超にわたって続ける大型取引へと花開いた。

さらに、1997年になると赤ちゃんを抱えるお母さんと丹平製薬の切望を一手に叶えた形の鼻腔改善具「鼻水とって」を生み出し、最盛期に年間で40万台以上を売り上げるヒット商品として排出した。

こうした一連の成功事例が物語るように、ここまで武内容器が歩んだ創業からの足跡は、景気にも後押しされて順調そのものだった。

 

(第4章 多様性への挑戦)につづく