第2章 会社設立の転機 (50周年社長インタビュー掲載)


前回掲載の「第1章 創業に至るまで」では会社設立に至るまでのきっかけとなる出来事をインタビュー掲載しました。

今回は、会社設立の転機から設立までを引き続き「合同会社胸打つ企業研究所」代表の石田 浩様によるインタビュー内容です。

2019/10月以下インタビュー内容

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●最大手の一員となるも厳しい洗礼待ち

尊いアルバイト賃金を工面し、一重ねの布団とワイシャツ2枚を得た武内は3月末、故郷の友人や学友に見送られて武生駅から美津濃の膝元 大阪へ発った。

まず、世界の強豪メーカーと双肩の美津濃で待ち受けていたのは新入社員教育だった。当時、高校卒ばかりを採用していた美津濃は「社員教育が非常に厳しいことで有名だった」という。

学びの一環として出荷場で荷造りをしていた武内は、時代を物語りそうな「藁御座」や「荒縄」と呼ぶ梱包資材で当時から看板商材だった野球道具と向き合っていた。

ある時、背後から「コーンと頭を叩かれて」武内が振り返ると、怪訝な表情を浮かべて直立不動な当時の社長から「君はそれを何ケース作るねん」と切り込まれた。慌てふためいた武内がどうにか「100個位です」で答えると、社長は「武内君は持ち糸を断ち切る際に無駄を出している。それは一日あたりわら縄一巻分にも達する。君は金を捨ててるんか」とにべもなかった。

社長によると、縄を編むための藁を調達する担当者の行動は「全国を回って買い付けるたいへんな苦労」をともなうのだといい、武内が垂れ流していたロスを金銭に換算すると「おまえの給料以上だ」とする経営トップの言葉が鼓膜から全身を貫いた。ポツリ、この時に社長から受けた薫陶を「いまだに忘れない」と絞り出した武内は、後に歩み出す経営者の道へ珠玉の教えを授かっていたのかもしれない。

●打ち出の小槌となったゴルフとの出会い

美津濃に入社して3カ月が過ぎると、戦力と見なされた武内はゴルフ専品部門に配属された。戦争によって衰退していった生家を回想した冒頭とは異なり、美津濃でゴルフ事業と触れ合った当時を振り返る場面になると武内の表情がパッと華やいだ。

まず、送り込まれたのは製造部門だった。そこは同社製のゴルフクラブを信奉するファンらが〝聖地〟と崇める岐阜県の養老工場で、武内の下積み期間が始まった。折しも、当時の社長が総合メーカー美津濃におけるゴルフを競合比で「絶対的に優位な部門」に育て上げると肝煎りを発した時期で、武内は大所帯な同社の先鋭部隊へ送り込まれた格好だった。

職人気質とでもいえそうな空気が覆っていた養老工場で、武内は〝習うより慣れよ〟とばかり先輩らの仕事ぶりを貪るように見入る習熟期間を過ごした。また、当時の美津濃は企業文化が寛容だったのか見習い者へ「シャフトや原木のほか皮のグリップ等全て与えられ、先輩職人と一緒にドライバー(という呼称のクラブ)を10カ月間で100本作った」という武内は、それらが「よく売れた」ことも手伝って「ものづくりが好きになった。私の原点はここにある」と意気軒高に言い切った。

こうした美津濃の新人育成文化に水を得た魚と化した武内は、「いずれは独立」と志す将来を見据え、ゴルフクラブ造りに専念する日々の中で製造過程を凝視しながらメモ帳に刻みつけていった。

工場で鍛え上げられた1年間が過ぎると、本社へ戻って販売業務に就いた。鉄製の2段ベッドで50~60人が生活する淀屋橋の社員寮は、規律が「ムチ」のように厳しい一方で、開店前にはお客用の練習施設を社員が使える「飴」の一面があった。この飴を十二分に利用した武内は、ゴルフの腕を磨くと同時に「負けん気が身についた」と明言している。

↑ゴルフとの出会いが後の事業に貢献していくことになった

ほどなく日本にゴルフブーム胎動の風が吹き始めると、機動力を買われた武内は在阪のデパートに美津濃のクラブ売場を普及・拡大していく命を担った。その契機に、生活の糧である賃金を得るだけでなく新しい経験を積んで自分を研鑽していった武内を、そのうえ人生の伴侶となる女性との出会いも待ち受けていた。

やがて夫婦となる女性の第一印象について、武内は「美津濃が派遣したその女性社員は、自社よりも出店先のデパートのために人一倍努力していた。その人柄は周りを明るくし、お客様からの評判も上々だった」としたうえで、「将来に自分が独立した折には、無くてはならない人だと心に決めた」と述べて相好を崩した。

以降、それは険しい道のりだった彼女の両親から結婚承諾を得る難行を乗り越えて25歳で結婚すると、武内はこの時、目前に人生のそれは巨大な分岐点が迫っていることを知らなかった。

 

(第3章 草創期)につづく